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COLUMN / Governance

アサヒ・アスクル事案に学ぶサイバー攻撃の実態と企業が講じるべき本質的対策

2026.01.02

アサヒグループホールディングスとアスクルで発生した大規模サイバー攻撃は、単なる事業停止(ビジネス・ディスラプション)事件ではありません。決算発表の延期という財務的信用の毀損を招き、サプライチェーン全体を麻痺させたこれらの事案は、サイバーリスクがもはやIT部門の問題ではなく、取締役会が責任を負うべき「コーポレート・ガバナンスの失敗」に直結する脅威であることを白日の下に晒しました。

この脅威は、特定の業界や企業規模を問わず、デジタル技術を事業基盤とするすべての企業にとって、市場価値そのものを揺るがしかねない喫緊の経営課題です。本レポートでは、これら二つの象徴的な事案を深掘りし、現代の攻撃者が用いる巧妙な手口と、多くの企業が抱える構造的な脆弱性を具体的に分析します。その上で、同様の悲劇を繰り返さないために、企業が今すぐ断行すべき本質的かつ実践的な対策を提示することを目的とします。

1. 事案分析:アサヒグループとアスクルで何が起きたのか

このセクションでは、二つの著名なインシデントの具体的な経緯と攻撃手法を解明し、現代のサイバー攻撃がいかに巧妙で、かつ破壊的な力を持つかを明らかにします。両社の事案は、企業の異なる弱点を突いた「二つの物語」として、現代の脅威の多面性を示唆しています。

1.1 アサヒグループのケース:境界防御と資産管理の崩壊

アサヒグループへの攻撃は、忘れ去られた拠点の脆弱性が組織全体の命運を左右する、典型的な境界防御の失敗事例です。

  • 侵入経路: 攻撃者は、アサヒグループの国内拠点に設置されていたネットワーク機器の脆弱性を悪用し、社内ネットワークへの侵入を果たしました。本社でどれだけ強固な対策を講じていても、管理の行き届かない子会社や拠点の「わずかな隙」が、組織全体の防御を無力化する侵入口となり得ることを証明しています。
  • 攻撃者と手口: 犯行声明を出した「Qilin」は、RaaS(Ransomware-as-a-Service)というビジネスモデルで活動する組織的な犯罪集団です。彼らは、製造業のように「操業停止1時間あたりの損失額が極めて大きい」企業を意図的に狙う「ビッグゲーム・ハンティング」を実行します。データを暗号化するだけでなく、窃取したデータを公開すると脅す「二重脅迫」の手口を用い、企業に身代金支払いの圧力をかけます。
  • 事業への影響: 被害はデジタル空間に留まりませんでした。受注・出荷システムが停止し、サプライチェーンが麻痺。さらに、会計システムへの影響から第3四半期の決算発表が約50日も延期されるという事態は、企業の財務的信用という根幹に直接的な打撃を与えました。これは、サイバー攻撃が事業運営のみならず、企業の市場からの信頼をも破壊し得ることを示しています。

1.2 アスクルのケース:ID管理とサプライチェーンの死角

アスクルの事案は、技術的な脆弱性ではなく、ポリシーの「例外」が引き起こしたID管理とサプライチェーン・ガバナンスの失敗事例です。

  • 侵入経路: 攻撃の起点は、多要素認証(MFA)が「運用上の例外」として適用除外されていた、業務委託先の管理者アカウントでした。「たった一つの例外」が致命的な侵入口となり、自社だけでなく取引先を含めたサプライチェーン全体のID管理がいかに重要であるかを痛烈に示しています。
  • 攻撃者の挙動: 驚くべきは、攻撃者が最初の侵入から約130日間もネットワーク内に潜伏していたことです。一般的なランサムウェア攻撃の平均潜伏期間が約7日である中、この4ヶ月という期間は、攻撃者が単に潜んでいたのではなく、組織の内部構造を地図のように把握し、EDR等のセキュリティ製品を無力化し、そして復旧の最後の砦であるバックアップまで確実に破壊するための、周到な準備期間でした。
  • 事業への影響と対応: 物流センターは完全に機能を停止。バックアップも破壊されたことで、同社は汚染された旧環境の修復を断念し、「クリーンな新規環境をゼロから構築する」透明性の高い情報開示を継続した姿勢は、危機下における企業統治の模範例として評価されています。

これら二つの事案は異なる侵入経路を辿りながらも、結果として企業が共通して抱える構造的な脆弱性を浮き彫りにしました。次のセクションでは、多くの企業が見過ごしがちな、これらの脆弱性の本質を深掘りします。

2. 浮き彫りになったセキュリティの見落とし

個別の事案分析から一歩進み、このセクションでは両社に共通して見られたセキュリティ上の「構造的な欠陥」を三つの視点から抽出します。これらは、多くの日本企業が同様に抱える潜在的リスクであり、自社の体制を見直す上での重要な指針となります。

2.1 「例外」が招いた侵入経路

アスクルの「MFA未適用の委託先アカウント」や、アサヒの「パッチ未適用の拠点ネットワーク機器」が示した教訓は明確です。セキュリティポリシーにおける「たった一つの例外」が、組織全体の防御を無力化する致命的な突破口となり得ます。「運用上の都合」や「システム的な制約」を理由に設けられた安易な例外措置が、攻撃者にとっては格好の標的となるのです。セキュリティの強度は、最も厳重な部分ではなく、最も脆弱な一点によって決まるという原則を、改めて認識する必要があります。

2.2 侵入を前提としない防御体制の限界

両社ともに、一度ネットワーク内部への侵入を許した後、攻撃者が管理者権限を奪取し、内部を自由に移動する「横展開(ラテラルムーブメント)」を食い止めることができませんでした。これは、一度建物に侵入した泥棒が、鍵のかかっていない内部のドアを次々と開けて社長室までたどり着くようなものです。境界防御モデルの思想が、もはや現実の脅威に対応できていないことを証明しています。現代のセキュリティは、「侵入を防ぐ」ことだけを目的とするのではなく、「侵入されること」を前提として、たとえ侵入されても被害を最小限に食い止めるための内部対策(ゼロトラスト)が決定的に不足していたことが、被害を甚大なものにした最大の要因です。

2.3 「つながったバックアップ」の無力化

両社の事業復旧を著しく困難にした最大の要因は、ネットワークに常時接続されたオンラインバックアップが、本番環境と同時に攻撃者によって破壊されたという事実にあります。従来の事業継続計画(BCP)は、地震や火災といった物理災害を想定しており、遠隔地のバックアップからの復旧を描いていました。しかし、サイバー攻撃は物理的な距離に関係なく、ネットワークで繋がっている全てのシステムを同時に破壊します。この、サイバー攻撃特有の「バックアップ破壊」というシナリオを想定していなかったことが、従来のBCPの致命的な脆弱性でした。

これらの見落としは、単なる個別の技術的な問題に留まりません。それは、組織としてセキュリティリスクをどう捉え、管理していくかという、セキュリティガバナンスの在り方そのものに起因する根深い課題なのです。

3. 企業が断行すべき、次世代の防衛戦略

これまでの分析を踏まえ、このセクションでは、企業が同様の被害を回避するために即座に着手すべき、具体的かつ本質的な対策を「技術」「戦略」「組織」の三つの観点から提言します。これらはコストではなく、未来への不可欠な投資です。

3.1 ゼロトラスト・アーキテクチャへの移行:例外なき認証強化

もはや「社内ネットワークだから安全」という考え方は通用しません。全てのアクセスを信頼せず、都度検証する「ゼロトラスト」という概念への移行が急務です。その上で、アスクルの教訓から、業務委託先や外部パートナーを含む全てのユーザーに対して「例外なき多要素認証(MFA)」を徹底することが、最も費用対効果の高い第一歩です。これは単なる技術的な防御策ではなく、リモートワークやクラウド活用といった現代的な働き方を、安全に推進するための事業基盤そのものです。

3.2 事業継続を死守するバックアップ戦略:隔離と不変性

ランサムウェア攻撃に対抗するためには、バックアップデータが攻撃者によって削除・暗号化されないことが絶対条件です。そのためには、従来のバックアップ戦略を根本から見直す必要があります。

  • オフラインバックアップ(エアギャップ): ネットワークから物理的または論理的に完全に切り離されたバックアップを定期的に確保し、攻撃者がネットワーク経由でバックアップに手を出すことを防ぎます。
  • イミュータブルストレージ: 一度書き込んだデータは、設定した期間中は変更も削除もできない「不変性」を持つストレージを活用します。これは一度書き込んだら消せないペンで記録するようなもので、攻撃者が管理者権限を奪ってもバックアップを破壊できなくします。

3.3 サプライチェーン全体のガバナンス:経営層の責務

セキュリティ対策は、もはやIT部門だけの閉じた問題ではありません。サプライチェーン全体のリスクを管理し、事業継続の責任を負う「経営マター」です。経済産業省が「サイバーセキュリティ経営ガイドライン」で示す「経営者が認識すべき3原則」にもあるように、経営者自らがリーダーシップを発揮し、取引先や子会社に対してもセキュリティ基準の遵守を契約レベルで求める必要があります。これは取引先への一方的な要求ではなく、サプライチェーン全体のレジリエンスを高め、予期せぬ供給停止リスクから自社の事業を守る、共同での価値創造活動です。そして、万が一インシデントが発生した際には、透明性の高い情報開示を行う姿勢こそが、最終的に企業価値と信頼を守ることに繋がります。

これらの対策を講じることは、単なる防御に留まりません。それは、不確実性の高いデジタル社会において、企業の信頼性と事業継続性を担保し、持続的な成長を実現するための、極めて重要な競争力強化への投資なのです。

4. 結論

アサヒグループとアスクルの事案は、サイバー攻撃が経営の根幹そのものを揺るがす深刻なビジネスリスクであることを、日本社会全体に明確に示しました。

これからの時代に企業に求められるのは、侵入を完全に防ぐことを目指す従来の「防御」の思想だけではありません。むしろ、攻撃を受けることを前提として、いかに迅速に被害から回復し、事業を継続させることができるかという「レジリエンス(回復力)」こそが、企業の存続を左右する鍵となります。

本レポートで提示した対策の実践は、単なるコストではなく、不確実な時代を生き抜くための企業の競争優位性そのものを築くための戦略的投資です。強固なセキュリティ体制は、もはやリスク回避のための「コスト」ではなく、信頼される企業としてデジタル社会を生き抜くための「パスポート」であり、取引先からの信頼を勝ち取る強力な「資産(ベネフィット)」となります。今こそ、全ての経営者がこの現実を直視し、自らのリーダーシップで行動を起こす時です。